生活費(15万/月)を稼ぐことができず、失敗するまでのデイトレ日記です。
ただ、全く誰とも話さず、誰の顔も見ずにお金を得ることができるのは大きなメリットでもある。煩わしい人間関係から解放され、純粋に自分の腕だけで食ってゆくことも可能だからだ。場所は問わないし、寝っ転がっていようが、音楽をかけていようが結果さえ出せばいいのだ。私も当初はそこに魅力を感じ、デイトレで食ってゆきたいと思った。

いくら腕のいい鍛冶職人がいたとしても、作った包丁を売る相手を見つけることができなければ食ってゆけない。その点、デイトレなら早急に資金を回収したい場合、よっぽど流動性のない銘柄でなければ、2~3割引の値引き覚悟で売れないことはないからだ。場所は問わないし、在庫も抱えないし、商売相手にも困らない。開業資金もほとんどいらない。勝てる腕があればこんな好条件な商売は見つからないだろう。ただ一つ他者(お客さん)から「ありがとう」を言われることが全くない点を除けばだが…。

そう私は「ありがとう」に飢えているのかもしれない。私は贅沢になってしまったのだ。初めは誰とも話さずにお金を稼げるのが嬉しかったのに、気がついたらそこが不満になってしまったからだ。

先日大学時代の友達とご飯を食べる機会があった。そこで最近は対面でできる仕事を始めたいと思っていると伝えると、そいつは「そう言うと思った、逆に今までよく続けられたな。何年もずっと今のような生活を続けていれば気がおかしくならない方が不思議だと思う。」というのだ。よくみているなと思った。そいつは大学で哲学の講師をしていて私よりよっぽど頭が良いのだ。

①デイトレを含む取引自体にやりがいを見つけるのか、それとも②取引しながらそれ以外でやりがいを見つけるのか、③取引はやめて全く別のことにやりがいを見つけるのか、今後はその三つのうちのどれかになると思う。

今年は一時③に大きく針が振れたが、今は再び①~②に振れ戻している感じだ。ここ2~3ヶ月はパズドラやファミコンウォーズに現実逃避することもなく、土日関係なくずっと株にはまっている。株で新しいやり方を探すのが楽しくなってきたのだ。といっても優待が好きなので、最近はそっち方面の割合が大きい。

でもこれだけドカンドカンやらかしておいて言うのも恥ずかしいが、デイトレで新しい工夫もいつくか試みている。なにぶん結果が伴わないのが残念だが、去年後半や今年前半と比べればかなりやる気がアップしたのも確かだ。やる気があると、昔のように何の根拠もないのに、いつか何とかなる、将来絶対上手くゆくと思えてくるのが不思議だ。今年前半だったらまず思えなかったことだ。まあ単なる妄想に終わるかもしれないが、そんな妄想ができるようになっただけでも良しとしたい。今月はだらだらとかなり長くなってしまった。

今月勝てたことに感謝したい。
だがボランティアへ通うとその反省すらスパッと抜け落ちてしまったのだ。楽しい気分のまま、ろくに負けた取引のことも考えずに、そのまま翌日の相場に向かってしまう。確かに大負けしてもスパッと忘れた方がいいこともあるが、何も振り返らずにスパッと忘れていいと言うことはまずないと思う。この点でかなり気持ちがたるんでしまった。

デイトレのモチベーションを維持するためデイトレとは別のところでやりがいを見つけたい。でも自分が見つけた別のところにはまればはまるほど、意図した結果からますます離れてゆくような気がした。そんなことを経ると、私にとって生きるとは何なのか、何のために仕事をするのかを考えさせられる。

考えてみるとデイトレという仕事はかなり変わっていると思う。仕事というのはそもそも他者との繋がりがあって成り立つもの、つまり、初めに困っていたり何かを必要とする人(お客さん)がいて、その人のために物やサービスを提供し、その見返りとしてお金をもらうことだ。お客さんなしで仕事は成り立たない、それが普通だ。

だがデイトレを仕事とする場合それが成立しない。ネット回線とパソコン(あるいは携帯端末)さえあれば、全く誰とも話さず、誰の顔も見ずにお金を得ることも可能なのだ。もちろん、ネット上で目に見えない相手と電子上の株券という商品を売買しているとは言えるが、そんなことやっている最中は全く考えちゃいない。クリック一つですべて成立してしまうのでその実感はかなり薄い。

もっと言えば、取引の相手が生身の人だったらまだましかもしれない。今は自動的にプログラムされた箱とやり取りしている方が多いかもしれないからだ。そうなると益々商売しているという実感がしなくなる。単なるゲームのようでもある。
しかし、ボランティアへ出かけるからには普段通りというより、むしろ普段以上に笑顔を作ってゆかなければならない。私はボランティアを始めるにあたり二つ絶対そうしようと決めたことがある。一つはお年寄りの話をよく聴くこと、もう一つはいつも笑顔でいることだ。さっきも言ったがデイサービスはお年寄りが心穏やかに過ごす場所。私にとっては非日常の世界であり、しかめっ面した者が居たらおかしいのだ。通うからには「無理してでも笑顔でいなければならない」、そう思ったのだ。

でも名は体を表すとでも言うのだろうか、単細胞と言うべきなのだろうか、初めは作り笑顔だったとしても少しその場にいると本当に楽しくなってくるのだ。帰りにはまさにほんとに自分が楽しみ、楽しい気分で帰宅する。お年寄りに喜んでもらうためには、まず自分が楽しまなければいけないから、そこまでは悪いとは言わない。その後が問題だ。

そうするとコロッと数時間前にやらかしたことを忘れて家に帰る。本当は家に帰ったらほっぺを両手で叩き、現実世界に戻らなければいけないのだ。ここではドカンとやらかしたそのままの散らかり状態。後始末は何もできてないのだ。本来はそうして自分を追い詰めないといけないのだが、楽しい気分で帰ってくるものだからスパッと頭を切り換えられない。まあいっか、まず飯を食ってからにするか、となる。でも夕飯を食べるとますます頭もぼーっとしてきてさらに考え事をする気分でなくなる。そんな形でろくに反省もしないまま流してしまうことが多くなった。

ボランティアを始める前は、ほんとに大きな失敗をしたとき、反省するのも嫌で、手短にルーチンワークだけやって、一杯引っかけてふて寝してしまうこともよくあった。でもそんな時でさえ酒飲みながらも頭の中は負けたことで一杯だ。酔っ払っても寝付けないし、一晩が長くて長くて堪らない。翌朝のジョギング中も、その後のシャワーでも、ずっと頭の中は負けたことで一杯になる。その間、あーすべきだった、こーすべきだったと考えがぐるぐる巡るのだ。今にして思えば、これはこれで反省になっていた。四六時中、失敗した取引が頭を巡るのは、もうそれだけで反省しているとも言えるのだ。
さて、話を戻すと、残るは社会貢献したいという気持ちだ。これは私にも大いにあった。それが去年夏から始めたデイサービスでの傾聴ボランティアだ。もともと普段誰ともしゃべらず一日中部屋にこもっているのは良くないと、社会とのつながりを求めて始めたこと。ただそうは言っても、おこがましいかもしれないが、同時にお年寄りの為に何かしてあげたいという気持ちがあったのは確かだ。それがなかったら、頻度は落ちたが1年以上も続かないと思う。

通ってみるととても楽しかった。ただ話を聴き、メガネを拭いてあげるだけでもものすごく喜んでもらえたのだ。これには私の社会貢献欲がビシビシ満たされた。はっきり言って幸せな気持ちになった。ちょっと大げさかもしれないが、私というものを認めてもらえたような気がしたのだ。

でもこれがまたやっかいなことだった。デイサービスとは心穏やかに過ごす終の棲家。競争や欲望とは無縁の場所。まさに株式相場と対極とも言える場所にあったからだ。私は一度好きになるとはまり込む性格。デイサービスにはまればはまるほど、生活が満たされるが、その見返りにハングリーさは風船がしぼむように、シューっとしぼんでいったのだ。

しかしこれも勝てない言い訳にしかすぎないだろうと思っていた。一方で、心穏やかに過ごすということはメリットであり、これは取引においてもとても大事なことだからだ。いつもがっついて気持ちがせかせかしてれば勝てるものも勝てなくなる。心が落ち着いてこそ、まともな取引もできる、そう思っていた。

実際にはどうやらこれがかなりの誤算だった。いや、本来はこの考えは間違っていないと思うが、私の心の弱さのせいかもしれない。または頭の切り替えがスパッとできない不器用な私ならではと言えるかもしれない。

ボランティアをはじめて初めの半年くらいは週二で定期的に通っていたが、当然それだけ通っていればドカンと負けたり、ドカンとは至らなかったけれどもギリギリの所で助かった、いわゆる、やらかした日は多々出てくる。ボランティアへ通う前だったら、ザラ場が終わって30分くらい放心し、そのあと苦虫を噛み潰したような顔で脳内反省会を開くのだが、まさにその時間に出かけなければならない。今にして思えばそれが貴重な時間だった。
いや、必ずしも昔が良かったと言っている訳でもない。昔は毎月毎月が自転車操業だった。仮にちょっとでも大きな病気や怪我をしたらそれだけで取引の資金を失うというという綱渡りな状況だったからだ。まだ若かったから冒険が許されるという面もあるだろうが、いい歳してそんなギリギリの生活を何年も続けて良いはずもないのだ。「無職」を貫くには、人並み以上に「蓄え」を作るようにしないといけない面もある。だから昔より今の方が断然恵まれていることは感謝しなければいけない。

でも私の場合、恵まれていることとハングリーさは相反し両方を兼ね備えるのは難しいのだ。恵まれていればハングリーさは失われるし、100万ぽっきりしか手元になければハングリーさは取り戻せるかもしれないが、そうする為には残りすべてを投げだし、本当に逃げ場のない状況を作らないといけない。つもりではダメだ。本当にそうしないといけない。だがそれは相当ためらいがある、じゃあ今までは何だったんだとも思うだろう。自己矛盾の葛藤と今を失う怖さが入り混じってできないと思う。

とすれば、そこそこ恵まれていると認識しながらもハングリーさを取り戻す努力をしないといけないことになる。それが現実解というか、落としどころだろう。そこでも私は大いに苦悩した。普通のサラリーマンであれば、そこそこ腹が満たされている場合(普通の会社は最低限の賃金が保証されているが)、次に目指すのは社内で出世したいとか、あるいは社外で名声を得たい、世のため社会貢献をしたいとなると思う。先月もちょっと触れたが、心理学者マズローさんの言葉を借りれば、物質的要求が満たされた上で、次の段階として精神的欲求を追求するのと同じだ。

でも私の場合、もともと部屋に一人でこもってやっていることなので、そもそも社内での地位向上を目指すのはあり得ないし、社外で名声を得たいという欲求もほとんどない。いや正確に言えば、昔はあったのだが最近はほとんどなくなったという感じだ。敢えて言えばこの日記(ブログ)が該当するのかもしれないが、2年ほど前からなるべく目立たないようにとブログランキングからも登録を外した。そんなことに心を煩わす虚しさを感じたのだ。もっと本質的な中身に注力したい、そう思ったのだ。公開日記とはいえ、かなり恥ずかしい素の自分をそのまま綴っており非公開に近い気持ちでいたかったのだ。

ちょっと余談になるが、実はこの日記は有料ブログなのだ。いや見ている人にとってではない。私にとってだ。というのは、この日記は忍者ブログというものなのだが、3年ほど前から有料になったのだ。厳密に言えば、記事(日記)自体は、それまで同様無料で書けるのだが、課金しないとページに広告が表示されてしまうのだ。その広告が私は大っ嫌いだった。はじめは課金しないと広告が表示されることを知らなくて、ある日突然表示されたのでびっくりした。理由を知ったあと、日記自体はいままで通り無料で書けるならそのままでもいいかと一瞬思った。でも5分もチカチカ見てるともううんざりした。

むかし中学校か、高校の教科書に載っていた星新一さんの小説を思い出す。タイトルは覚えてないが、未来では広告入りのレコードは無料だが、無音のレコードは有料だという話だ。今ではレコード自体が廃れてしまったので、ちょっと合わない部分もあるが、星新一さんが予想した未来は当たり、無広告を買う時代になったのだと感じた。

とは言え、今まで散々無料で書かせてもらってきた恩もある。それからは考えを変え、今までの感謝と大事な日記を有料とは言え、年間たった数千円で書かせてもらえるのだから有り難いと思うようになった。
カレンダー
06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
昔の月にジャンプ
下の年月を選択するとその月のページにジャンプします。

最高逆日歩計算機
株価
売買単位
日数
権利付最終日 はい
注意喚起 はい
異常な貸株 はい
使い方はここを参照
2014/7/22 改訂対応
手数料計算(現物)
2013年8月時点
現物

手数料 
片道無料 
手数料計算(信用)
2013年8月時点
信用

手数料 
片道無料 
プロフィール
HN:
ねぶくろ
性別:
男性
趣味:
オセロ、ジョギング
自己紹介:
株で生活資金を稼ぐ予定で、資格試験の勉強中。

しかし、見通しが甘く生活費の出金を含めて資金は減り続け400万→100万にまで減少。

まさにがけっぷち、これ以上大きく負ければ即、
退場→職探しコースが待っている。
ブログ内検索
これまで訪問してくれた方
今日はどうかな
遊び心で...

無料ブログパーツ
表示された1~9の中で、2つ表示されているものがあり、それを瞬時に判断して答える脳トレゲームです。

Copyright © [ 資金100万で生活費を稼ごうとする無謀なデイトレ日記 ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks :
Commercial message :